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第5回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2016-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

真冬のアマルフィ海岸を行く


聖三位一体ベネディクト修道院2
ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA di Cava de' Tirreni

聖ベネディクトとは


    青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
  2020年10月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁

 2013~2016年アマルフィ海岸現地視察調査報告<256本 全体メニュー>

ベネディクト修道院1   ベネディクト修道院2   ベネディクト修道院3   ベネディクト修道院4
ベネディクト修道院5   ベネディクト修道院6   ベネディクト修道院7   ベネディクト修道院8
ベネディクト修道院9   ベネディクト修道院10  ベネディクト修道院11   ベネディクト修道院12
ベネディクト修道院13   ベネディクト修道院14  ベネディクト修道院15   ベネディクト修道院16
ベネディクト修道院17   ベネディクト修道院18  ベネディクト修道院19   ベネディクト修道院20

    
アマルフィの位置     ベネディクト会  カーヴァ紋章  イタリア国旗
 

◆概要


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 カーヴァ・デイ・ティッレーニの聖三位一体ヴェネディクト修道院には、18世紀の防水構造(hacklers)を備えたルネッサンス様式の表玄関から入ると聖具室があります。ロマネスク様式の回廊(13世紀)は石棺で飾られています。

 聖三位一体のベネディクト図書室には、5万冊もの図書が備えられ、多くのインキュナブラ(いわゆる『42行聖書』をグーテンベルクが1454/55年頃に完成させてから、1500年末までにヨーロッパで活版印刷された印刷物を指す)や16世紀の重要な図書が収蔵されていました。

 保存された資料には、貴重な暗号・記号、手書きの原稿など15,000以上にものぼる、羊皮紙や書類のかなりの量が含まれていました。792年から1065年までの文書の全文は以下のCodex Diplomaticus Cavensis として出版されています。


フロンテスピツィオ
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 12世紀に創られた広い部屋は、美術館と聖母マリア及び聖人たちの部屋となっており、15世紀のシエナ派の手によるテーブルが置かれています。 象牙の棺は11世紀のものです。ラファエル派による祭壇の画はアンドレア・サバチーニに捧げられたものです。

 画家カラヴァッジオによる絵画、数多くの考古学的な発見があり、それらの中には、コインもあります。また、完璧なまでのサレルノのロンバードとノルマン人たちの整然とした規則正しい時の流れが感じられます。アブルッツォやヴィエトリのマジョリカ焼き、菜食された手書きの写本などがあります。

 聖三位一体ベネディクト修道院とは Badia della SS Trinita 
 http://www.badiadicava.it/index.php?option=com_content&view=article&id=38&Itemid=22

修道院の芸術作品
 
 ベネディクト修道院では何世紀にもわたり、さまざまな時代の多くの芸術作品を展示しています。その中には、建物、フレスコ画、モザイク、サルコファギ、彫刻、絵画、執筆原稿などの貴重な物があります。

  注)サルコファギ(sarcophagus)=石棺 
  死者を埋葬する石製の棺。古代ギリシア・ローマでは,40日間,死体が
  腐敗して消滅するまで石棺に入れておいたと伝えられるが,死者を石製
  やテラコッタなどの棺に入れて埋葬することは,すでにエジプト新王国の
  トゥトアンクアメンに先例があり,身分の高い人物などを手厚く葬る方法
  であったのであろう。棺蓋や四周に彫刻や絵画のあるものも多い。日本
  でも弥生時代に箱形石棺が,古墳時代に割竹形,舟形,家形,長持形
  などの石棺が用いられた。
  (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)


 これらの秀逸な遺産は、主に僧侶または僧侶から委託された他の芸術家の作品によるものですが、ローマのサルコファギはじめ、いくつかの絵画、さらにローマまたは中世の建物の場合と同様、調査結果にもとづく購入や寄付がそれに貢献しています。 以下のファウネットはS.アルフェリオの到着前にアルシシア洞窟に存在していました。


アルシシア洞窟の古代の壁で発見されたファウネット(牧神=半身半獣の神)
Source: ABBAZIA BENEDETTINA DELLA SS.TRINITA di Cava de' Tirreni

  注)ファウネット(FAUNETTO)
   若い牧神、または牧神の小さなもの(主に彫像)を指す。
 
   ファウヌスとは、ギリシア神話のパーンに相当する。ローマ神話の農耕
   神・ルベルクスとも同一視される。中世以降はパーンやサテュロスのイ
   メージと混同され、財宝の守護者とも夢魔ともいわれた。ファウヌスの女
   性形がファウナ(Fauna)である。ファウナはまた、ローマで女人だけの祭
   る不思議な女神ボナ・デア(Bona Dea 善女真)の名前とされた。彼自身
   を象徴する彼の持ち物は狼の毛皮、花や草で作った冠、酒杯(ゴブレット)
   である。家畜と田野や森を守る神である。この他、多産も司る。名は「い
   るもの」を意味する。これは予言の力があるからとも言い、また森の中で
   不意に不思議な音のするのはこの神の仕業であるとも言う。(後略) 
   Sourせ:Wikipediay


◆ベネディクト教会(修道院)とは

 529年にヌルシアのベネディクトゥスがローマ・ナポリ間のモンテ・カッシーノに創建しました。その戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」でした。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれました。

 ベネディクトゥスが修道院の生活の規範とした戒律(「聖ベネディクトの戒律」)は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規であり、フランシスコ会・ドミニコ会以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなりました。ベネディクトゥスの妹スコラスティカも、同じ精神を持って生活する女子修道院を開いています。


聖ベネディクトゥスのメダル(en:Saint Benedict Medal)

 同会の伝道範囲・活動範囲は、イタリア半島のみならず現在のイギリス、ドイツ、デンマーク、スカンジナヴィア半島、アイスランド、スイス、スペインに及んでいます。中世ヨーロッパにおいて、伝道・神学・歴史記録・自然研究・芸術・建築・土木のそれぞれにおいて果たした役割は大きいと言えます。

 修道院が広大な領地や財産を有するようになった時代、教会刷新をめざしてクリュニー会がベネディクト会の中から派生し、910年、クリュニー改革運動が起きました。

 12世紀中ごろ以降のベネディクト会は、世俗化により衰退した時期もあったが、1400年頃から再び改革運動が起きました。ベネディクト会からはクリュニー会の他にも、カマルドリ会、シトー会、厳律シトー会(トラピスト会)など、多くの修道会が派生しましたが、ベネディクト会そのものも存続し続けています。

 画像のような荘厳な建物のひとつは、エステ家の枢機卿イッポーリト2世・デステにより1565年ごろから改修工事などが行われ、現代(2001年)において世界遺産に登録されたものまであります。

 宗教改革時代、修道会は打撃を受け、イギリス(主にイングランド)、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの修道院は解散させられ、ドイツでは全体の3分の1を喪失しました。

 19世紀初頭には世俗化する西欧各国の動向によりほとんどの修道院が解散もしくは廃止させられましたが、その後、1830年頃から次第に復興のきざしがみえ、近代に入って学問研究、典礼運動などを契機に復興を果たし、今日にいたっています。日本においては、厳律シトー会に属する北海道北斗市のトラピスト修道院でベネディクト会の活動の様態を知ることができます。


◆聖ベネディクト礼拝堂(Chapel of Saint Benedict)とベネディクト

 ベネディクトを知るために、ここでは北イタリア、パドヴァ市にある聖ジェスティーナ教会の礼拝堂とそこに掛かれているベネディクトの生涯を紹介いします。


 聖ジェスティーナ教会の聖ベネディクト祭壇は、ジェノヴァの黒と白の大理石を用いて造られています。祭壇のテーブルには、若い方のパルマ(Palma the Younger)により、聖ベネディクトが聖プラシドと聖マウロを迎える様子が描かれています。
      

Chapel of Saint Benedict  聖ベネディクト礼拝堂
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 4.0, Link
 


St. Benedict welcomes his disciples, Maurus and Placidus
弟子の聖マウロとプラシドを迎える聖ベネディクト
Source:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


◆ベネディクトとは


ベネディクト
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 ヌルシア(イタリア中部のまち)のベネディクトゥス(Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)は、中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになりました。

 ベネディクトはカトリック教会のみならず聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人です。ベネディクトやベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット(Benedetto)と呼ばれます。正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと称されます。

  注)克肖者(こくしょうしゃ) Source:Wikipedia
   正教会で聖人に付される称号。日本正教会による訳語。正教会において
   最も一般的な聖人の称号であり、亜使徒、致命者、廉施者、登塔者、佯狂
   者なども含めた正教会の聖人の総称としても用いられるが、修道士であった
   聖人に用いられる事が多い。女性の聖人に「克肖」の称号が用いられる場合
   には克肖女(こくしょうじょ)と呼ばれる。
   英語の"Venerable"はカトリック教会では尊者に相当するが、正教会の克肖者
   とカトリック教会の尊者とでは全く意味合いが異なる。


 カトリック教会においては、教会の聖堂名や保護聖人名、個人の霊名、その他において「聖ベネディクト」と記載・表記した場合、このヌルシアのベネディクトゥスを表すことが多いと言えます。

 529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行っいました。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼びます。

生涯

 ベネディクトゥスは、480年頃、スポレートに近い小さな町ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれました。

 伝承によれば、双子の妹にスコラスティカ(聖スコラスティカ)がいました。少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得しました。ローマでは、東ゴート王国の大王テオドリックが奨励する古典教育を学びました。これは行政官として必要な教養を身につけるためでしたが、キリスト教の福音の教えに共鳴したベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、早い時期に学校を退学しました。

 以下は双子の妹にスコラスティカ(聖スコラスティカ)です。北イタリア、パドヴァの聖ジェスティーナ教会には聖スコラスティカ礼拝堂もあります。


スコラスティカ
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


 ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではありませんでしたが、ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めました。しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至りました。ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」 は、この精神を表現したものです。

 修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスは山中の町スビヤコ(ラツィオ州)に修道院を設立しました。彼のもとに、彼の評判を聞いて次々と共鳴者が集まり、スビヤコには12の修道院が増設されるに至りました。

 しかし、同時に反感をもつ者も増えて往きました。12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥスは12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院にごくわずかな弟子たちとともに住みました。とはいえ、ベネディクトゥスは依然としてスビヤコ全体の修道院長であり、修道士たちの信仰生活の父親役を務めたのです。

 ベネディクトゥスは、彼のことをこころよく思わない修道士によってあやうく毒殺されそうになり、スビヤコの町をいったん離れました。ローマ在住の貴族たちは、彼の修道院に子弟をあずけるようになり、そのなかから聖マウリスや聖ブラキドゥスなども現れました。

 ベネディクトゥスに弟子が増えると、地元の聖職者たちからの敵意はいっそう募り、彼は南へ約100キロメートル離れた町への移動を余儀なくされ、529年頃、モンテ・カッシーノに移り、修道院を設立、モンテ・カッシーノ修道院設立の後は、ベネディクトゥスの生涯はその理想とする修道生活の実現のために捧げられました。

 540年頃、ベネディクトゥスは会則を定めました。厳格派と穏健派の中道をつらぬき、労働と精神活動について定めたこの会則は、西ヨーロッパにおけるほぼすべての修道会へ広がっていき、以後、長い間、中世ヨーロッパの修道制度の基礎として考えられてきました。

 ベネディクトゥスは547年頃にモンテ・カッシーノで死去し、妹の聖スコラスティカとともに埋葬されました。


聖ベネディクトゥスと毒杯(オーストリア、メルク修道院)
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる



聖ベネディクトゥスのメダル(en)の表裏
Source:Wikimedia  Commons
CC0, リンクによる
 

Georges Jansoone - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる
ヘルマン・ニーグによる肖像画(1926年)(オーストリア、ヘリゲンクラウツ修道院)
Door Georges Jansoone - Eigen werk, Publiek domein, Koppeling
Source:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


ベネディクト修道院3につづく